スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ゆりかご以前から墓場以後まで

少し前までは、日本の社会は「ゆりかごから墓場まで」がモットーのように、保険や社会保障はもとより、会社も終身雇用制などでバックアップしていました。
良くも悪くも、真面目に生活していたなら、中流の生活は出来ていたわけです。

いつのころからか「成果主義」が叫ばれ、「自分さえよければ」という風潮がはびこり、上記のような「社会全体で国民を守る」という風潮が無くなったと思います。
今では子供手当なるもので「社会で子供を育てる」等と戯言を言う始末ですが。。
(子供は、親や家族が育て、地域社会でもまれるものやと思います。お金ではない。)


さて、先日以下のような記事を知り合いが上げていましたので引用させていただきました。
(一部読みやすいように改変しております)

------------------------------(以下引用)------------------------------

うちらの業界(神社界)はまさに『冠婚葬祭』を地でいってるなと改めて思った。
“冠”とは元服すなわち成人儀礼のこと。“婚”は婚礼。“葬”は葬儀。“祭”は盆会など先祖をまつること。
それより先にも誕生から始まり、各種人生儀礼を一通りこなして死後も関わるわけだから、誰かの人生を「ゆりかご以前」から「墓場以後」まで付き添っていっていることになる。
それが親から子へ、子から孫へと子孫を受け継ぐサイクルに合わせて様々な人の人生に寄り添っていくわけだから、どこかで目出度いこともあれば、哀しいことにも巡り会う訳だ。
 
祝い事ならいいのだが、悲しみの席というのは、他人事ながらも感傷的になってしまう。
故人を知らなくとも、遺族や友人らの涙する姿や旅立ちを惜しむ声を聞くと、当人の気持ちに感情移入して貰い涙をしてしまいがちになるのは俺が感傷に流されやすいからだろうか。
 
葬儀のマナーで、香典の表書きを薄墨で書くのは涙で滲んだという意味。
柏手を打たないのは、悲しみに暮れて打つ気力もないということ。
今は『清め塩』は死は穢れという観念が良くないという一部の宗教の考えから“しなくとも良い”となっているが、穢れとは『気(け)枯れ』であって、悲しみで弱った心を立ち直らせるの意なのだと説明している。
これらは故人への哀悼と、悲しみを振り払い元の生活に戻るために様式化された一連の儀式なのだから、頑なに塩という部分にだけにこだわるのはいかがなものかと思う。
 
葬もいつしか年月を経て祭になり、霊魂もご先祖様となって子孫たちの冠や婚をあたたかく見守ってくれるだろう。
日本人の死生観はまずは祖霊崇拝ありきであって、俺らは神まつりというそれを解りやすく儀式化してるだけ。
 
結局のところ、各々が見えない何かを想う心が大切なんだろうと思う。

-----------------------------(引用終わり)-----------------------------

正直、柏手の所は、私は別の意見(故人の魂を呼んでしまわないように)もあるのですが、この意見も納得の理由です。
「ゆりかご以前から墓場以後まで」
私は関わり合った方々に真心を尽くしきれていたのか。
振り返る為の一つのいいきっかけであったと思います。

昨今の「目に見えるモノだけが大事」「自分だけが大事」という考えではなく、最後の一文にあるように「目に見えない何かをも想う」そういう心掛けがあれば、この荒んだ世の中もかなり良い方向に向かうのではないでしょうか。
また、それこそが知性を持つ人間として最も大事なことであるのではないでしょうか。

テーマ : 神社・神道 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。